紙面から

【こども記者】特攻隊の若者たち 知覧特攻平和会館 鹿児島県南九州市

2015年09月09日 15:55

特攻隊員が母親にあてて書いた遺書のことを話す松元さん
特攻隊員が母親にあてて書いた遺書のことを話す松元さん
 ●どんな思いで飛び立ったのだろう
 
 太平洋戦争の終わりごろ、旧(きゅう)日本陸軍には、飛行機ごと敵(てき)に体当たりする特攻隊(とっこうたい)(特別攻撃(こうげき)隊)があった。死を覚悟(かくご)し、爆弾(ばくだん)を積んで飛び立った隊員の中には、10代、20代の若者(わかもの)がたくさんいた。戦後70年の年に、こども特派員(とくはいん)が、日本最大の特攻基地(きち)があった鹿児島(かごしま)県南九州(みなみきゅうしゅう)市知覧町(ちらんちょう)の特攻平和会館を訪(おとず)れた。

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 まず目に飛び込(こ)んできたのは、三式戦闘機「飛燕(ひえん)」だ。日本に1機しかない本物で、整備(せいび)をすれば飛ぶことができるそうだ。特攻平和会館で27年前から語り部をしている松元淳郎(まつもとじゅんろう)さん(87)が、飛燕の前で話をしてくれた。

 太平洋戦争で、日本はアメリカ(米国)やイギリス(英国)などの連合軍を相手に戦っていた。だが、米軍が沖縄(おきなわ)に上陸。軍事力も資源(しげん)力もおとる日本は「せめて最大の努力をして負けよう。きっと後輩(こうはい)が祖国(そこく)を立て直してくれる」と、最後の作戦として特攻を選んだ。陸軍の特攻で亡(な)くなったのは1037人。九州で最も南にある知覧基地からは439人が出撃(しゅつげき)し、最年少は17歳(さい)だった。

 館内には戦死した1037人の写真や遺書(いしょ)が、出撃した日にち順に展示(てんじ)されている。松元さんは、その一部を紹介(しょうかい)してくれた。支給(しきゅう)された軍服がぶかぶかの、まだ体の小さい少年の写真。大きな文字で「お母さん大元気で」と書かれた手紙。時間がなくて、自分が乗る飛行機に向かって歩きながら書いたという遺書。中には今の北朝鮮(きたちょうせん)や韓国(かんこく)など外国の人もいたそうだ。

 「もうすぐ死ぬというとき、長い手紙が書けるものじゃなかった。10代、20代の若者たちが最後に書き残したのは、ほとんどが『お母さんさようなら』という手紙です」と松元さん。

 会館には、となりの鹿児島県指宿(いぶすき)市にある開聞岳(かいもんだけ)の大きな写真があった。知覧基地から飛び立つと、すぐ左に見えるこの山へ、特攻隊員たちはみんな敬礼(けいれい)したという。この世との別れを惜(お)しみながら振(ふ)り返り、振り返り飛んで行ったと、わずかな生き残りの人たちが話してくれたのだそうだ。その人たちからの強い希望で、この写真がかかげられているそうだ。

 松元さんは「特攻隊を美化しているという人もいるが、本当にあったこと。家族や恋人(こいびと)、祖国を守ろうとした、純粋(じゅんすい)で優(やさ)しく、勇敢(ゆうかん)な先輩(せんぱい)がいっぱいいたんです。70年前は遠い昔のことと思わず、こんな若者がいたということを語り継(つ)いでいこう。そして絶対(ぜったい)に戦争はしてはいけない」とうったえた。知覧町育ちの松元さん自身も、同級生2人を特攻で亡くしたそうだ。

 「今の平和な世の中がどんなに幸せなことか、あらためて感じた。絶対に特攻隊のことを忘れてはならない」(垣内特派員)

 「私(わたし)たち子どもも、特攻隊や戦争の事実を知って、隊員が守りたかったものは何かや、とつげきした人の思い、家族の思いをじっくり考えてみることが大事だと思った」(白石特派員)

 ●トメさんには本心が言えた したわれた「隊員のお母さん」

 私(わたし)たちは、平和会館の近くの「ホタル館」(知覧町(ちらんちょう))にも行った。ここは戦争中、特攻隊員たちに「お母さん」としたわれた故鳥浜(ことりはま)トメさんがきりもりする富屋(とみや)食堂だったところで、今は資料館(しりょうかん)になっている。

 富屋食堂は1927(昭和2)年にトメさんが始め、42年に旧(きゅう)陸軍の指定食堂になったそうだ。ホタル館には、トメさんと特攻隊員のエピソードがたくさん書いてあった。隊員たちは、トメさんに最後の手紙をわたし、別れを告げていったそうだ。

 「日本は負けるよ」と語る人がいた。トメさんは、ほかの人に聞かれたら大変と心配したが「いいんだ、ぼくは死ぬんだから」と言ったそうだ。「ホタルになって帰ってきます」と言って20歳の隊員が出撃(しゅつげき)した夜には、本当に食堂にホタルが飛んできたそうだ。

 「館内の写真の特攻隊員は、これから飛行機で敵(てき)に体当たりしに行く人たちなのに、みんな笑顔だった。ぼくは、隊員のみなさんはトメさんをお母さんのように思えたから笑顔だったのではないかなと思った」(大川特派員)

 トメさんの孫で、ホタル館館長の鳥浜明久(あきひさ)さん(54)は、トメさんは食材がなくなると自分の着物を売っていたと教えてくれた。戦争が終わっても特攻隊員のために祈(いの)り続けたそうだ。知覧に来た遺族(いぞく)が泊(と)まれるように旅館もつくった。そして「特攻おばさん」と呼(よ)ばれたトメさんは、89歳(さい)で人生の幕(まく)をとじた。

 「特攻平和会館とホタル館に行って、人の命の大切さ、歴史を知ることの大切さが分かった。これからに生かしていきたい」(大坪特派員)

 ●わキャッタ!メモ

 ▼知覧の特攻基地 1941(昭和16)年、福岡(ふくおか)県筑前町(ちくぜんまち)にあった大刀洗(たちあらい)陸軍飛行学校の分教所として開校。少年飛行兵などの訓練を行っていたが、戦争が激(はげ)しくなり、45年に陸軍特攻基地となった。その一角に75年、特攻遺品(いひん)館ができ、87年には現在(げんざい)の知覧特攻平和会館が建設(けんせつ)された。現在、館内には遺族や戦友から持ち寄(よ)られた写真や遺品、戦闘機(せんとうき)の実物や実寸(じっすん)大の複製(ふくせい)など、約1万4000点が展示(てんじ)されている。

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 ●取材

 ▼福岡県久留米市・上津小5年 大川 達也特派員
 ▼佐賀県鳥栖市・鳥栖小6年 大坪 歩未特派員
 ▼福岡市・当仁中1年 垣内 奎吾特派員
 ▼北九州市・鳴水小5年 白石 百奈特派員

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=2015/08/12付 西日本新聞朝刊=

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