紙面から

【こども記者】空襲の跡をめぐる

2013年06月27日 18:03

■福岡大空襲
 
 太平洋戦争が終わろうとしていた1945年6月19日、福岡(ふくおか)市は大きな炎(ほのお)に包まれた。アメリカ軍(米軍)による福岡大空襲(だいくうしゅう)。空襲を体験し、福岡市で語りつぐ活動をしている元中学校教師(きょうし)の井形敏子(いがたとしこ)さん(72)と戦争の跡(あと)をめぐった。

【こども記者】空襲の跡をめぐる

 空襲を告げる短いサイレン音が街にこだましていた。上空を爆撃機(ばくげきき)が飛び交い、地上では人々が逃げまどった。当時、福岡市郊外(こうがい)に疎開(そかい)していた井形さんは「大きなサイレン音と赤黒く覆(おお)われた福岡の街をはっきりと覚えている」と話した。
 200機をこえるB29爆撃機が19日深夜からの約2時間、福岡の街に大量の焼(しょう)い弾(だん)を落とした。死傷者(ししょうしゃ)約2200人。火災(かさい)の広がりに備(そな)え、市内では事前に民家を引きたおしてこわす「強制(きょうせい)疎開」があったが、火の勢(いきお)いはすさまじく全体の約3割(わり)の家が焼けたという。
 当時、最も安全とされたひなん所の一つ、旧十五銀行福岡支店(してん)跡をたずねた。今の博多座(はかたざ)だ。たくさんの住民が逃げこんだ地下室は、停電でとびらが開かなくなった。間もなく空襲の高熱で水道管が破(は)れつ、熱湯が流れこむなどして約60人が亡(な)くなった。一方、ひなん所が満員のために閉(し)め出され助かった人もいる。
 「『運』という言葉ではとても片付(かたづ)けられない。それが戦争」と井形さんは語った。
 空襲が特に激(はげ)しかった博多・須崎(すざき)地区には、ぎせい者を供養(くよう)する地蔵(じぞう)が多い。戦後に地元住民が建てたものだ。今は「平和台」と名付けられた場所にある旧(きゅう)西部軍管区司令部跡や旧福岡二十四連隊跡なども見て回った。
 井形さんは戦時中、武器(ぶき)生産の金属(きんぞく)不足を補(おぎな)うため、住民がお釜(かま)や結婚(けっこん)指輪、仏像(ぶつぞう)まで軍に提供(ていきょう)したことや、戦地に行く家族の無事をいのって作った「千人針(せんにんばり)」などについても、実物を紹介(しょうかい)しながら説明した。
 「子どもたちに二度と同じような経験(けいけん)をさせたくない。だから、こうした事実を知ってもらい、次の子どもにも伝えてほしい」。井形さんは最後にそう話した。

【こども記者】空襲の跡をめぐる

=2013/06/19付 西日本新聞朝刊=

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